びわ灸は、「ビワ療法」のひとつですので、その歴史はビワ療法の歴史でもあります。
ビワ療法の歴史は古く、その源流はアーユルヴェーダ医学とタント医学が融合した古代インド医学にまで遡ります。
ビワ療法は三千年前のインドから
ビワの原産地は中国南部やインドで、これらの地域では数千年も前から、ビワの木や葉に優れた薬効や癒しの効果があることが知られていました。

約三千年前のインドの仏教の経典「涅槃業」のなかでは、
と書かれています。
「大薬王樹」とはビワの木のことで、ビワの葉は「無憂扇」と呼ばれ、「大薬王樹」は「最高の薬木」、「無憂扇」は「病気を治して憂いをなくす扇(葉)」という意味があります。
そのころのインドでは古代文明が栄え医学も発達しており、薬物療法の水準も高く、何百種類もの植物・動物・鉱物由来の生薬が使われていましたが、それらの中でも特にビワの木や葉の薬効は高く評価されていたようです。
中国で漢方に

一方、中国でも昔からビワの葉は「枇杷葉」と呼び、貴重な漢方の生薬として利用し、この「枇杷葉」に他の何種類か生薬を組み合わせて、様々な漢方薬が作り出されていました。
「枇杷葉」が配合された漢方薬としては、現在も日本でもよく使われている呼吸の病気によく効く「辛夷清肺湯」や「枇杷葉散」「枇杷葉膏」など多くの種類があります。
中国の明の時代に書かれた漢方の本「本草綱目」(1596年、李時珍・著)では、
と書かれています。
また、枇杷葉は現在でも様々な漢方薬に配合されていますが、これら枇杷葉が配合された漢方薬の多くは「肺の熱っぽいもやもやを鎮め、痰を切り、咳を止め、胃の不快な症状を穏やかにして吐き気を抑える薬」とされています。
日本伝来

禅文化研究所の文献によると、ビワ療法は奈良時代に中国からの僧医で唐招提寺を建立した鑑真和尚によって日本に伝えられたとされています。
当時は、中国に倣い律令制度がつくられましたが、庶民の暮らしは決して豊かではなく、奈良の都でも住む家のない人や病人があふれていました。
730年(天平2年)には、聖武天皇妃の光明皇后が、貧しくて病に苦しむ人々のために「施薬院」を創設し、ビワの葉療法も行われていました。
この時期を前後して、寺院の境内にビワの木を植えて、僧侶がビワの葉療法を行い病人を救うようになりました。
このころの手法は、ビワの葉を火であぶり、熱いうちに患部にあてて摩擦するという素朴な方法だったようです。
江戸時代
このように、寺院を軸としてビワの葉療法は全国に広まり、ビワの葉の使い方も各地でいろいろと工夫されていきました。

江戸時代になると、ビワ葉に甘草や桂枝などを混ぜた「枇杷葉湯(びわようとう)」という飲み薬が売り出され、夏負けや日射病、軽い食あたりなどを予防するということで、京都や江戸で大人気となりました。
枇杷葉湯は、絵のように行商人が大声で口上を述べながら売り歩いていたようです。
また、ビワ葉だけを煎じた薬も売られたり、皮膚炎の治療や美容などのための入浴剤として使われたりもしていました。
ちなみに、現在のような美味しい食用のビワは、江戸時代後期になって栽培されるようになりました。
近代から現代
江戸時代までの日本の医療は、鍼・灸・漢方薬などの東洋医学やビワの葉療法などの自然療法や民間療法が主でしたが、明治時代以降の近代になると西洋医学が採用され、それ以外の医療は徐々に勢いを失っていきます。
そんな流れの中、昭和の初期になると改めてビワの葉療法が注目されるようになり、科学的な研究をする動きも出てきました。

その研究の対象になったひとつが、静岡県の定光山金地院という禅宗のお寺で行われていたビワの葉療法「金地院療法」でした。
金地院療法は、ビワの葉に経文を書いて火にあぶり、それを皮膚にのせるという独特のものでしたが、その実績と研究者が目の当たりにした効果によって高く評価され、論文も発表され注目を集めました。

その後、ビワの葉をあてた上からもぐさをするという方法が生まれ、この療法が後に「ビワ葉温圧療法」として広まりました。
土師療術院で施術する現在のびわ灸は、ビワ葉をエキスにしてより使いやすくした「棒状モグサ」や「ビワ葉エキス」を使い、びわ灸の器具を二本同時に使う「陰陽打ち抜き」によって効果を倍増させる施術法です。